あるきながらあるき⑦コアコレクティブ
迷うな!!迷った瞬間もう遅いのだ。お客さんに次の動きがばれてしまう。お客さんの眼は光速より速いぞと師匠はよく言う。だから頭で考えるなと。
でも、振り返ってみると踊っているときはだいたい迷っている。というか、迷っている状態をずっと維持している感じだ。
今日はこの感じで外を歩いてみた。迷ったままの状態で歩いてみるのだ!!!
意気込んで靴を履こうとするが、家を出ようか出ないかで迷い、歩く気が失せた。
気を取り直して外に出て、10分ぐらいは適当に気が向くままに歩く。そこからだんだん移行してみる。
身体があらゆる可能性に開かれたままだが、あえて、その、行きたい方向に行くのではなく、迷ったまま、決断しないまま歩く。
集中しないとすぐ答えを出しそうになる。行きたい方向、習慣、素敵な大木のある方向。大好きな公園、知らない小道、のら猫にふらふらと誘われるがすべての誘いを断って迷うままにいる。
修行みたいになってきた。顔がいつもより真顔だ。いつものリラックスがない。
どんどん歩かない。
目移りばかりする。
世の中にはこんなにも誘惑が多いのか。コンビニの数も多すぎる。コンクリートブロックに触りたい。匂いに沿って歩きたい。右足が行きたい方向がある。急にジャンプしたい。あの石を踏みたい。おなかがすいた。葉っぱをむしりたい。時間を見たい。
やらないことを身体に強制するとやりたいことが鮮明になるのは面白い経験だ。
しかし、しんどいぞこの状態を続けるの。
欲深い身体め。
後日、もう一回やってみよう。慣れてきたら面白いかもしれない。知らない駅で降りてやってみてもいいかもしれない。
もしかして、この状態って座禅のようなものかもしれないなぁ。と思いながら結局いつもの公園にたどり着く。
あるきながらあるき⑥コアコレクティブ
温暖化の影響で近年氷が少なくなってスエズ運河使うよりお得な航路とのこと。そんで、この利便性をアメリカとロシアで争ったりしている。
雨降ってきたから散歩どないしよかなぁ。と思ったが、むしろ、歩いてやる。いやどうしよう。と迷っているうちに止んだ。ので、ひょこひょこ雨上がりを歩くことに。
人類学者のティムインゴルドがこのお天気世界で我々は生きているみたいなことを言っていた。お天気世界とはなんともほのぼのとした表現でとてもいい感じがする。
どうしたってお天気の影響は受けざるを得ない身体だ。
水たまりを見つけてはそこに入る。
そのためにわざわざ長靴を履いてきた。誇らしげである。当たり前だが長靴は中が濡れない。万能感。無敵感。
何かの映画の中の沖縄戦のインタビューを思い出す。少年兵にぶかぶかの長靴と制服を渡した伍長が命令する。この服装に体を合わせろと。
雷が遠い。セミも急に鳴き始める。気温は一時的に下がってとても気持ちがいい。二駅歩いたから、電車で帰る。
あるきながらあるき⑤コアコレクティブ
二脚の人間は移動をはじめる前からすでに不安定な状態にある。注意深い観察者や酔っ払いならば知っているように、ただじっと立つ、ということがすでにバランスの妙技なのだ。
『ウォークス 歩くことの精神史』(レベッカ・ソルニット)
だから、立っているというだけでもダンスやパフォーマンスたり得るのだと思う。さて、ここから歩くとなるとまた大変だ。バランスをわざと崩すことで歩きが始まるのだから。いったい、いつ安心すればいいんだ。
私たちは常に不安定さを抱えたまま自分自身の体を運ぶ。
昔の飛脚さんは例えば右足のひざを抜いて(ひざの力をぬいて)倒れそうになった時に左足を出す(出る。)で、今度は左足のひざを抜く。倒れそうになったら右足をだす。といった具合に走っていたらしい。重力に身を任せただ足を出すだけで走っていたそうだ。
ほんまかいな。すごいな。
やってみたけど相当な腹筋がいるな。でも、これは武道で言う「縮地」みたいなのにもつながってくるのか。できるようになるとるろうに剣心ができるのか。
全然関係ないがモンキーパイソンのコメディのひとつに「バカ歩き省 」というのがある。
足が長いとすごいこのバカ歩きが映える。
ブタペストではパレードもやっている。
そういえば、この前散歩中に見たんだけど前を歩いている家族の父親らしき人とその息子さんの歩き方がそっくりというか、瓜二つだ。すごい。なんだったんだあれ。しかも、そのことに家族が何にも気づいていない。骨格が近いから歩き方も似てくるのか。体形も似ているし。
しかしそう考えると自分も、父のように歩いているのか。なんか、いやだなぁ。うわぁ、いやだなぁ。なんて、、、、、、いやだなぁ。
兄に似ていたとしたら、それもいやだなぁ。いやだよなぁ。にてんのかなぁ。いやだなぁ。
いやだけど、人が見たら、きっと、面白いんだろうなぁ。
あるきながらあるき④コアコレクティブ
今年の夏も暑い。夏が暑いのは当たり前だが年々本気度が増している。暑さのインフレーション。どこに文句を言えばいいのかわからないので、暑い暑いとつぶやくしかない。と思っていたら今日はなんだか涼しい。あれだけ暑かったのだから涼しさがひとしおだ。でも、さすがに、「いやぁ、まだまだ、夏終わってませんでしょう?嘘つかないで下さいよぅ。」と夏におもねり、疑り深い私は半袖で出かけたら寒かった。
この前コアコレの勉強会がありました。今回はいつもお世話になっております。荒谷大輔先生です。一緒に踊ったり一緒に芝居したり一緒にカラオケ館に行ったりしています。
そういえば第1回のディスカッションもあったのだ。
自分の発表は「あるく」ことを考えていること。そして、映像を使おうかどうか考えていることぐらいでした。もうちょっと考えなあかんなぁ。と思いつつ。自分の作品制作はこのぐらいののんびりでやっているので仕方ないとこもある。
そして、勉強会です。
第3回コアコレ勉強会では、「資本主義に出口はあるか」などの著作があり、ご自身がダンス公演や演劇にも関わることもある哲学者の荒谷大輔さんにご登壇いただきます。
文化政策にお金が流れていた時代になぜそれが可能だったのか、など経済の視点から現状を明らかにした上で、「新しい公共空間=文化」のプラットフォームを作る役割をアートが担う可能性について、お話を伺います。
アーティストとしてどのように社会で生きていくか、文化を巡る状況の切実さが、あらわになっている今。でもだからこそ視野を広く取り、ピンチをチャンスに生かせる視点について考える時間にしたいと思います。どなたでも広くご参加いただけますので、是非お越しください!荒谷大輔(あらや だいすけ)
1974年生。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、江戸川大学基礎・教養教育センター教授・センター長。著書に『資本主義に出口はあるか』(講談社現代新書)、『ラカンの哲学:哲学の実践としての精神分析』(講談社メチエ)、『「経済」の哲学:ナルシスの危機を越えて』(せりか書房)、『西田幾多郎:歴史の論理学』(講談社)、『使える哲学』(講談社メチエ)など。<講師からメッセージ>
人はなぜアートにお金を払うのでしょうか。二つの解答がありえます。「文化として価値があるから」と「他の人も欲しがるから」。他にもあるという方がいれば、ぜひ議論しましょう。さしあたりこの二つは、近代社会の成立基盤に関わる対立した論理に根ざしています。その論理を明らかにした上で、それとは別の新しい価値を作り出す可能性について、お話できればと思います。
あるきながらあるき③コアコレクティブ
エアコンの温度を26℃にしたり27℃にしたり行ったり来たりしている。26.5℃がいいんだけど、うちのエアコンはできない。友人に聞くとできるエアコンもあるらしい。頭がいい。できれば、この数字にできないあいだのものでいてほしい。ねこ様は「温度どうでもええで。エアコンずっとつけとけや、こら。チュールだせや。」とおっしゃる。「わしらは寒かったら寒かったでけがモフモフするし、暑かったら暑かったでごっそり毛が抜けるし、文句言うしな。チュールさらに出せや。」ともおっしゃる。
仕方がないのでチュールをお皿に出して(カルはチュールからそのままチュールを食べない。から、かわいくない。普通にご飯食べてる感じになる。かわいくない。)エアコンをつけっぱなしにして散歩に出かける。
きわめて短い距離を偶然歩くことになっても戻ることのない永遠の冒険のつもりで進むべきです。 『ウォークス』レベッカソルニット
というわけで、そのつもりで散歩してみる。しかし、戻らないとなるとカルちゃんともう会えないのか。少し涙ぐむ。もう、それなりに年だからすぐ泣く。泣けるようになった。ペンギンが自分で産んだ卵を冷やさないように足の上にのせる映像で泣く。おジャ魔女どれみの最新映画を観に行って始まって5分で泣く。終わっても泣く。泣いている場合ではない。歩く。
一歩一歩が楽しい。いつもの散歩とは違う感覚。一歩ごとのさよーならー。二度と同じ場所を踏むことはないのだ。仙骨を入れろ腹筋を使え。みぞおちを突き上げろ。知らない場所だ知っているけど知らない場所になる。
すっかり夜だ。秋の音がする。
それにしても蝉も鈴虫もいつだって鳴いているのだ。それなのに、その声に気づく瞬間が自分にあるのが不思議だ。自分はなぜ、あ、鳴いているなとその声に急に気づくんだろう。その声は常に、共にあったはずなのに。
誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない『断片的なものの社会学』岸政彦
蝉の声さえなかなか気が付かないのだ。社会に隠されているものもよほど注意しないと目に触れることなく過ぎていってしまう。歩きを少し変えるだけで目に触れるものも変わる。思考も変わる。空間も変わる。
しかし、帰る家がないのは悲しいし、カルのことを考えると帰らねばならぬ。西友にチュールとピュリナワンを買って今日は帰る。
あるきながらあるき②コアコレクティブ勉強会
そういえばコアコレクティブの説明をしていない。
コアコレクティブは参加者とダンサーのシェアリングを経て、ダンス公演、展示を開催する、プロセス共有型ダンスコレクティブ。そして、美術家やアート専門家による勉強会も開催し、多角的にダンスというものの捉え方を考える場を作る試みをします。
つまり、ダンサー同士で作品の制作過程をシェアしながら作品制作を進め、そして、同時に勉強会なども行いながら最終的に発表する予定。どこまでシェアするかはダンサーによるだろうけど。面白いと思って参加しています。
さて、そんな中で第一回の勉強会はコンテンポラリーとはなにか?
という講義でした。哲学的意味や歴史的文脈を学ぶことができたので良かったと思う。感想や、講義のレポートはコアコレのメンバーがアップしてくださっているのでこちらをどうぞ。
あれから何となく「んで、おまえは、コンテンポラリーをどない思ってんねん。飯の時間だぞ。」とうちのカルが言ってくる。仕方ないのでとりあえずご飯を出す。
と、そんなある日、友人からニコニコ美術館を観て!!とメッセージが来て、と、同時にプンスカ憤っていた。
ある写真家の展覧会を特集していたのだけど、311の震災の写真が途中で出てくる。そして、その写真家はぼろぼろになった家や津波でめちゃくちゃになった家を現代美術のようだ、震災もアートだと、美しいと言っていた。写真家も「こんなことを言ったらおこられるかもしれないけど」と前置きはしていたけど。
感性としてはわからなくもないし美しいと感じるのもわかる。現代美術のようだというのもわかる。がまだそれを言うには友人にとって生々しかった。自分にとってもそうだ。
友人は311は体感としてまだ一週間前だと言っている。自分はどうだろう。よく考えたら確かに一週間はぴったしの体感だ。まだ、自分にとって過去にできない。(一週間前は言語上は過去だけど。現在だ。)
この話をしているときに、ふと、コンテンポラリーってこんな感じなのかもしれないなぁって思った。言葉にできる、か、できない、ぎりぎりの過去まじり小さじ二杯ぐらい未来を混ぜてってぐらい。
まぁ、そうすると、人によってコンテンポラリーが違ってくるからあんまりいい例えじゃないだろうけど。それでも、手に感じられるとっても良い友人のぷんぷん憤りでした。
余談だけど、あの震災の現場に行って現場をアートのようだ、現代美術のようだなんて感じるのはちょっとアートをかじっている人間であれば普通だと思う。ひん曲がった時計が結構高い木の上から垂れていたのをみたり、いくつもの布団が森の木々のうえに引っかかっていたり、人の力じゃ集められないゴミの数々。自分はまだ畏れがあって、美しいとは言えない。もしかしたら、美しいとは言葉にしてはいけない畏れなのかもしれない。
あるきながらあるき①コアコレクティブ
「歩くこと」というメタファーは、わたしたちが歩くときに再び血肉を取り戻す。人生は旅だ。ならば現実に旅するとき、人生は手の先で触れられるものとなる。目指す目的地。目にみえる前進。身をもって知る達成。行為とメタファーは、そこでひとつになっている。迷宮、巡礼、登山、そして適切かつ明確な目的地を目指すハイキングなどはすべて、わたしたちが自らに与えられた時間を現実の旅として捉える機会であり、そこには、五感を通じて触れることのできるものとして精神の次元が存在している。旅と歩行がメタファーの核にある。とすれば、あらゆる旅と歩行は、迷路や儀式ほどに強烈ではないにせよ、それらと同じ象徴の空間へとわたしたちを導いているのだ。『ウォークス』 レベッカソルニット
前々から読まなければならないと思っていた本にやっと着手することができたのもコアコレクティブの皆様のおかげです。
今回は歩くことを、踊ってみようと思う。もしかしたらただただ「あるく」だけの作品になってしまうかもしれないけれども。
そして、日々の歩きを記録していこうと思う。その日々の歩きがそのまま振付になるように。
メタファーを実際に行動に起こしたときに血肉を取り戻すというソルニットの主張は歩くだけの作品になるであろう私の踊りに少し勇気をくれる。私が歩いたときに手の先で触れられるものは何だろうか。
そういえば紡ぐという振付をよく踊るのも実際に羊毛を紡いでからだ。ふわふわした羊毛から少しだけ毛をねじり、スピンドルに絡ませる。そしてスピンドルを回しふわふわの羊毛が一本の糸になる。あの経験をしてから紡ぐ身体が入った気がする。もしかしたら紡ぐも踊るかもしれない。丁寧に即興を重ねていこう。