あるきながらあるき②コアコレクティブ勉強会

そういえばコアコレクティブの説明をしていない。

Corecollective

コアコレクティブは参加者とダンサーのシェアリングを経て、ダンス公演、展示を開催する、プロセス共有型ダンスコレクティブ。そして、美術家やアート専門家による勉強会も開催し、多角的にダンスというものの捉え方を考える場を作る試みをします。

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つまり、ダンサー同士で作品の制作過程をシェアしながら作品制作を進め、そして、同時に勉強会なども行いながら最終的に発表する予定。どこまでシェアするかはダンサーによるだろうけど。面白いと思って参加しています。

さて、そんな中で第一回の勉強会はコンテンポラリーとはなにか?

という講義でした。哲学的意味や歴史的文脈を学ぶことができたので良かったと思う。感想や、講義のレポートはコアコレのメンバーがアップしてくださっているのでこちらをどうぞ。

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あれから何となく「んで、おまえは、コンテンポラリーをどない思ってんねん。飯の時間だぞ。」とうちのカルが言ってくる。仕方ないのでとりあえずご飯を出す。

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と、そんなある日、友人からニコニコ美術館を観て!!とメッセージが来て、と、同時にプンスカ憤っていた。

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ある写真家の展覧会を特集していたのだけど、311の震災の写真が途中で出てくる。そして、その写真家はぼろぼろになった家や津波でめちゃくちゃになった家を現代美術のようだ、震災もアートだと、美しいと言っていた。写真家も「こんなことを言ったらおこられるかもしれないけど」と前置きはしていたけど。

感性としてはわからなくもないし美しいと感じるのもわかる。現代美術のようだというのもわかる。がまだそれを言うには友人にとって生々しかった。自分にとってもそうだ。

友人は311は体感としてまだ一週間前だと言っている。自分はどうだろう。よく考えたら確かに一週間はぴったしの体感だ。まだ、自分にとって過去にできない。(一週間前は言語上は過去だけど。現在だ。)

この話をしているときに、ふと、コンテンポラリーってこんな感じなのかもしれないなぁって思った。言葉にできる、か、できない、ぎりぎりの過去まじり小さじ二杯ぐらい未来を混ぜてってぐらい。

まぁ、そうすると、人によってコンテンポラリーが違ってくるからあんまりいい例えじゃないだろうけど。それでも、手に感じられるとっても良い友人のぷんぷん憤りでした。

余談だけど、あの震災の現場に行って現場をアートのようだ、現代美術のようだなんて感じるのはちょっとアートをかじっている人間であれば普通だと思う。ひん曲がった時計が結構高い木の上から垂れていたのをみたり、いくつもの布団が森の木々のうえに引っかかっていたり、人の力じゃ集められないゴミの数々。自分はまだ畏れがあって、美しいとは言えない。もしかしたら、美しいとは言葉にしてはいけない畏れなのかもしれない。